※この記事は「モースとアシタカとロミオの気持ち1~物語の核心はカタルシスにある」の続きです。
 


誤解しないでほしいのですが、私には宮崎アニメの好きな作品もたくさんあり、
「カリオストロの城」も「ラピュタ」も、今までにいったい何回観たかわかりません。

「ラピュタ」の中の、パズーとシータを連れたおじいさんが、洞窟で鉱石を手にとって金づちで二つに割ると、中から青い光が一瞬輝いて消える、

あのシーンが何よりもたまらなく一番好きで、特別なものを感じ、

のちに、あのシーンを作りたいがために、漫画ではなくアニメーションの道を選んだのだ、と宮崎監督がなにかで書いていたのを読んだ時には、

ああやっぱり! と胸が震えたのも、私にとって忘れることのない記憶です。



そんな、敬愛する宮崎監督の世界的に有名な大作「もののけ姫」ですが、
私には、正視できない残酷でグロテスクな描写と、腑に落ちない場面の連続で、

震えながら観ていて、終わった時には泣けてしまいました。

愛するラピュタやトトロを作った人の作品なのに、なにもカタルシスがなく、物語に没入できないままの疑問だらけだったのが、大ショックだったのです。(一緒に観た友人は困惑したと思う。笑)


もちろん映像はものすごい完成度です、それは疑う余地がない。
音楽も素晴らしい、久石譲さん、大好きです。

設定なども練られているのはわかるのだけれど・・・練られすぎ、盛り込まれすぎていて、観ていてわからないことや違和感が、あちこちに出てくる。


そう、そこなのです。




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出典:pinterest



設定や背景がどれほど盛沢山で緻密に考えられていたとしても、

それが逆に映画やドラマをわかりにくくしてしまったのでは、単なる作り手側の自己満足になってしまいます。

本編中に出てこないことを、解説してもらったり予備知識として持っていないと、観ているだけでは理解できないことがある、となると、

観る者の興を、確実に削いでしまう。


それでは何のために作ったのかわからない。
カタルシスを与えるため、観ている者の心を震わせるために、物語は作られ、語られるはずなのに。


あの作品は私には、ストーリーの深刻さや、絵の気持ちの悪さとは違うところでも、見ていて非常に苦しくなってくる映画で、当時それはもう山ほど疑問やつっこみたいことがあったのですが、

思い出すのがつらくて以来観ておらず、もうほとんど忘れてしまったので、
覚えている小さなことを一つだけ、今回の話と繋がる例として挙げてみます。


*・*・*・*

アシタカが村を出る時、彼をあにさまと呼ぶカヤという少女が、見送ってはいけないという掟を破り、自分の大切なお守りを、彼に渡します。

でもやり取りからは、彼女が妹なのか、近所の幼馴染なのか、関係性がわかりません。

それでも、カヤがアシタカを特別大事な人だと思っていることは台詞からもわかるし、縁が深いらしいことも見当がつくのに、

その子の気持ちがこもった大切なお守りを、のちにアシタカがサンにあげてしまうので、世間でも、あれはカヤがかわいそうだ、と不評なようです。

私もその両方の場面に引っ掛かったことを覚えています。


別れの場面は、たとえ正確な関係がわからなくても、十分少女がアシタカを案じる気持ちは伝わるシーンだし、彼女にとってつらい別れであることも、間違いようがありません。

ただ、やはり観ている者の当然の気持ちとして、妹が兄を送るシーンなのか、少女が想っていた男を見送るシーンなのかがわからないと、感情移入ができず、

どんどん進んでいくストーリーの中でかまってはいられず、埋もれて行くけれど、それでも「あの子は誰だったのだろう」「あれはどういう気持ちで?」という疑問が、残ったままになります。

こういうことが重なると、視聴者が物語に没入するのを大きく阻害してしまいます。


そもそもどうして、あのシーンを作る必要があったのだろうと思うのです。

確かに本来は、こうした小さなシーンが物語に厚みや実在感を与えますが、そのシーンがあることで観ている者に未消化な疑問が残るようでは、逆効果になってしまいます。

関係性がわからない描写にするなら、わからなくても支障のない設定や場面であるべきだし、
関係性の理解が必要な場面なら、ちゃんとわかるように描かないと、意味がない。

でないと前述のように、観ているものに理解できない部分が生じて、疑問が取り残されてしまう。
(あの作品は全体に、こういう小さな不可解が積み重なっている印象でした。)


たとえばカヤのセリフに、兄妹の情なのか、異性への愛情なのかがわかる言葉を、一言加えればいい。

アシタカ 「見送りは禁じられているのに」
カヤ   「許嫁ですから。」

など。
(どこにもわかる部分はなかったので後から知りましたが、作者によると許嫁だそうですね。)


それをしない理由が、わかりません。

もし、そんなことを口にするのは恥じらわれる人柄、或いは風習、というような人物設定が理由だとしたら、

この場合、この場面に登場するだけで、以降の話に全く影響を与えない人物の詳細設定を守ることより、視聴者に最低限必要な情報を与えることの方が、当然、優先されるべきだと思います。


そしてそれをしないなら、わざわざあの少女とあのシーンを作った理由も、わかりません。

映画の限られた貴重な時間内に、わざわざ「カヤという村の少女が、禁を犯してまで彼に自分の大切なお守りを渡した」という重い設定の場面を作ったからには、

作ったわけ(必要性)がなくてはおかしい。

その設定が活かされるべきシーン(その設定と繋がっている場面)が、アシタカがサンにそれをあげる場面なのに、

カヤのことも、大事なものだという感じも、一瞬も思い出さないように、ためらいもなくあげてしまうから、観ている者が色々な意味で違和感を感じるのだと思います。

それまでとても誠実で、人情ある勇敢なヒーローという印象だったアシタカのイメージが崩れ、「あれ、この人、こんな薄情な人なの? なんだか思っていたのと違う。」と感じさせてしまう。

そこまで観てきて、この主人公はこういう人、と理解していた観客にとって、整合性が付かなくなって、理解できず共感もできなくなります。


言い方を変えると、そこでアシタカが彼女のことを思い出さないなら、「カヤにもらった」というシーンは、不要だし逆効果でさえあるということ。

もともと自分が生まれた時から持っているお守り、とか、村を出る前に長老格の老女(名前を失念)や村人一同からもらった、とか、そんな設定にしても別によかったし、

場面の大きな変更が難しいなら、私だったら、カヤを「アシタカが忘れて行きそうになった彼のお守りを届けた妹」とか、「村人、又は長老からのお守りを届ける役を担った幼馴染」とします。

そこにちょっぴり、カヤの恋心が表れたとしても、それならお守りにカヤの命がけの気持ちのような深いものがこもらない分、関係性もそこまでは気にならないし、

アシタカがお守りをサンにあげても、薄情とは感じさせず、逆に「自分のお守りをあげるなんて、やっぱりいい人」という印象になったかもしれないのに、

なぜ、観る者に疑問が残るような登場をさせ、その女性からもらったものを、簡単に他の女性に渡す心無い男、と感じさせる場面や設定を、わざわざ作る必要があったのか。


たぶん色々と試行錯誤しながらストーリーを詰めたり変更していく過程で、

そもそもそれまでの作品より頭で考えている面が多かったために、どこが本当に描きたいことか、重要で残すべきことかが、次第に混沌としてしまったのでは、と思っていたところ、

作者がそれについて「男なんてそんなもの」と解説しているのを知って、「ああ・・・やっぱり何か頭で考えすぎて、おかしなことになってたんだな。」と泣きたくなりました。

パズーに、ルパンに、男じゃないけどナウシカやサツキちゃんにだって、
そんなこと、絶対にさせなかったでしょ・・・。


もし現実にそういう男性がゴロゴロいたとしても、主人公アシタカがそういう男でいいのかということとは、まったく関係ない。

現実にもしそういうことが普通にあるとしても、(私はあまりそうとも思わないけれど)

それをそのまま映画の中に持ち込んで、観客が首をかしげるようなことをする必要はないし、それはまずいだろうと、何年も経った今でも思います。


ちなみに、ここまで書いて今更ですが、
私は、「女性からもらったものを別の女性へ渡した」という点が真の問題なのでなく、

村人一同からだったとしても、元々自分の持っていたものだったとしても、はたまたあげた相手が男性だったとしても、どちらにしてもすべて同じことで、

大切なはずのものを人に譲る時、そこに彼の気持ちがわかる表現がなにひとつなかった、

ということが、観ている側に違和感を感じさせる原因の、核心だと思います。

彼にとって大切なものだ、ということも感じられない。
そのものにまつわる記憶や経歴も、ないかのよう。

そんな描写だと、彼の気持ちも、人柄も、わからなくなる。



簡単だったのに。

アシタカがサンにとお守りを渡す時、たとえば一瞬だけお守りを握ってそれに目を落とし、それから渡せばいいだけだったのに。

その一瞬の表情やしぐさだけで、観ている者はアシタカのためらいや、「カヤにすまない」とよぎる心の声を間違いなく聞き取って、彼への信頼は損なわれなかったのに。

そして作り手は、そうした一瞬の繊細な心の動きを、誰よりもうまく描ける人のはずなのに。



あの映画の持つ現代社会への警鐘のメッセージを高く評価する人が多いようだということも、もちろん知っていますし、それについての私の意見は、また別の視点の話になるので置いておくとしても、

そうして物語に込めたメッセージを深く人の心に届けるためには、内容がどれだけ社会的な視点で立派かということより、

エンターテイメントとしてごく当たり前のこと、

観ている者が時間やフィクションの世界だということを忘れて、夢中になって没頭し、登場人物たちに共感して泣いたり笑ったりと、心を動かす物語であることが、

一番大切だと、私は思います。

(だから啓発用・教育用に作られた映画は、趣旨や主張は正論で立派だけれど、とてつもなく退屈で、それゆえなにも心に響かず、啓蒙という目的も達せられないことが多い。)


今回挙げた件はお話の本筋とはほとんど関係がなく、それこそ些末に聞こえることですが、

これをはじめとして私には殆どのことが腑に落ちず、あの映画の登場人物たちがどういう人なのか、全編を通してピンときませんでした。

違和感ばかりでどこにも感情移入が生まれず、まったく愛せなかったのです、人も、物語も。


そしてそれは、作り手が頭を使って考えすぎて、それまでの作品には溢れるほどにあった、人物の自然な「情」の、あたたかで丁寧な描写や、

受け取る観客の心を思いやる気持ちが、おろそかになったからではと、

個人的には思っています。


*・*・*・*

物語や書くことにおいて、

心で感じていることにしっかりと基づいた言葉やストーリーではなく、道具である思考の方がいつの間にか優位に立ったり、独り歩きしたものは、

どこか苦しいもの、違和感があるもの、深く心に触れないものになってしまう。


観客に、視聴者に、読者に、たったひとりのあなたに、
心が伝えたいことを、心に伝わるように表現しなくては、物語によるカタルシスは生まれない。


そしてその、「伝えたいことがきちんと伝わるように伝える」こと、それが実は、
どこまで行っても「これで完璧」という果てがない、奥が深い難しいことだと思っています。







え、タイトルにあるロミオがどこにも出てこなかったって?

そうそう、もしもロミオが、いつジュリエットを好きになったのか、どれくらい好きだったのか、どうして彼女の横で自ら命を絶ったのか、観る人によって解釈がまちまちで本当のところはわからない、

なんて、すっきりしない話だったら、今、私たちはシェークスピアという名前も、ロミオとジュリエットという物語も、全く知らなかったでしょう、

つまり、そういうこと。


と、そう言いたかったのです。(笑)




読んでくださったあなた、今回もどうもありがとう。

今日の私は、私の心が言いたかったことを、あなたの心に、しっかりと伝えられたかしら。
願わくば、いつもそうありますように。
















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