前回書いた「刑事モース」の話ですが、

昨日、Gyao! でシーズン3の無料公開が終わる前に、ふとレビューを見てみたら、

終わりの回の上司の娘ジョアンとのことで、モースの彼女への(突然の)気持ちと、彼女の方が彼をどう思っていたかについて、複数の人が色々なことを書いていて、

中には、そこまで自分で勝手にストーリーを作っちゃうのか、とびっくりするようなものもあり、

人それぞれの感じ方があるのはいいとしても、「やっぱりこんなにいろんな見方が出るほど、わかりにくいんじゃん」というのが、改めて私が思ったことでした。


映画でもドラマでも、どうなったかはっきりわからず、観ているものの想像に任せたり、含みを持たせた終わり方をするものが、たまにありますが、

狙ってそれをしていて、効果的に感じる場合と、
ただの作り手の独りよがりになっている場合があると、個人的には思います。



人間が日々生きていて受け取る情報のほぼ90%は、視覚からのものといわれます。

特殊なシーンではなく、ごく当たり前の日常の中でなら、音や香り、触覚味覚などに比べて、視覚情報は圧倒的に優勢なのです。

その、一目で多くの複雑な情報を伝えることができる視覚がメインの伝達手段だという点で、映画やドラマなど映像で綴られている物語は、

言葉だけを手段とする小説より、伝えられる情報量が、当たり前ですが、一瞬で圧倒的に多いのです。


けれど反対に、言葉で辛抱強く描写していかないと伝わらない小説を、一言ひとこと丁寧に読んでいくより、情報伝達が速い分、

「言葉に出さないと、本人以外の人にはわからないこと」は、うっかりしていると全く伝わらない面もあるのが、映像です。

そして人の心(気持ち)は、「言葉に出さないとわからないこと」の、最たるものですよね。


その点では、ある意味で現実と同じということ。

現実と同じように臨場感があるから、わかりやすくて楽しいのだけれど、同時に現実と同じように、目に見えない心や考えは、注意してしっかり表現しないと、見ているものに伝わらない。

と、私は思っています。

だから(映画やドラマを作るのは)難しい。
だから面白い。観ている側にも。




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「刑事モース」シーズン3より




話を戻しますが、そういうわけで、わざとわかりにくかったり、含みのある描き方や終わり方にして、見る人の想像や判断に任せよう、というストーリーにするのは、

作り手側にそうするだけのはっきりした必然性のある意図と、完成度の高さが必要だと思います。
(アレハンドロ・アメナーバルの映画「オープン・ユア・アイズ」のように。)

でないと、なんだこりゃ、わけがわからん、という、ただの失敗になってしまいます。



はっきりとした描写をしなかったり、含みのある終わり方の作品を、従来のありきたりのハッピーエンドや悲劇とは違う、複雑で新しい作品、というように評価する風潮がままある気がしますが、

しっかりしたストーリーのある物語の方が断然好きなせいもあってか、私には、それは作り手側の勝手な思い込みや独りよがりの場合も多いように感じます。

私は、物語とは カタルシスを与えるものである、と思っているからです。

カタルシスとは、心が動かされること。

悲しみにしろ、喜びにしろ、理由のわからない涙にしろ、心が動いて感情の解放が起きること。

それがカタルシスがある(起きる)ということであり、物語の効能であり、神話の時代から絶えることなく愛され続けてきた所以だと思います。


人の心に色々な謎を残し、あれこれと考えを巡らせるドラマやシーンも、あっていい。

でも、カタルシスもなく、必然性もなく、不可解な場合は、ただ伝える努力が足りないだけです。
モースとジョアンのことは、それに当たると私は思っています。

人によって全く見方が違ってしまうほど、わかりにくいのです。


お互い言葉で言わなかったり、相手の気持ちがはっきりわからないまま、すれ違ってしまう人間関係も、確かに現実にはあるでしょう。

けれど、これはテレビドラマです。

そのシーンで人物が何を感じているのか、観ているものにどう感じてほしかったのか、わからないで作っているはずがないのに、

見ている大多数の人にそれがわからず、主人公の気持ちに共感できないし、どういう場面だったのかも、人によって大きな差がある解釈が生じてしまうほどはっきりしない、

というのは、つまり、最低限の情報が伝わっていないということで、これは作り手側のまずさだと思います。


せっかくのシーンなのに、それでは観ている者にカタルシスが起こらないもの。

好きな主人公や登場人物に、肝心の場面で共感できないどころか、何を考えているかもいまひとつわからないなんて、物語を観る一番の愉しみがないじゃない。


(前回も書きましたが、「刑事モース」はとても評価の高いドラマですし、

練られた謎解きも、美しいイギリスの背景や、演じている役者さんたちも存在感があり、とても凝ったドラマだと思います。)


*・*・*・*

ドラマも玉石混淆のものが溢れ返っている昨今、多様性を求めたり、ありきたりではないものを提供しようという作り手側の努力には共感しますが、

私の個人的な意見、でも確信として、
人はどんなにドラマや映画、小説などに飽きるほど接していても、

けしてハッピーエンドにも、悲劇で終わるストーリーにも、本当に飽きることはないと思います。

素直な終わり方が問題なのではなく、そこまでの経緯があまりに似たり寄ったりだったり、心を打つ真実味や深みある描写がない時に、人はつまらない、飽きた、というのだと。


特に連続ドラマはそうです。
人は馴染みの主人公や登場人物たちに親しみを感じ、深い愛情を寄せます。

その愛情に応える誠実さの方が、

たとえば視聴者の解釈に任せる新しいラストとか、ありきたりでない珍奇な結末とか、
視聴者が別れを惜しむ暇もないほど、最後までこれでもかと展開を盛り込むとか、

そんなことよりずっと重要で、心のこもったいい作品にするために必要なことではと思います。




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アメリカの連続ドラマを観ていて、人物たちに愛着を持っていたのに、最後に「え、これでお別れ?」と思わされたことが何度かあり、それもあって、ちょっと逸れた上に力が入っちゃったかな。(笑)


一言でいったら、解説しなけりゃ意味がわからない場面が多発する物語なんて、ダメだよね、ということ。

こう書くと、「もののけ姫」を思い出してしまいます。
世間の評価を思うと、今まで大きな声では言えなかったのだけれど、私には、あれがまさにそう。




(続く)→「モースとアシタカとロミオの気持ち2~心に基づいて、心に伝える」









「刑事モース」  

 ← 天才アレハンドロ・アメナーバルの「オープン・ユア・アイズ」
ペネロペ・クルスが美しい! (色々と衝撃的なので、観る方は覚悟して観てください。)

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